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ホームページをご覧いただいた皆様、こんにちは!
常円寺の住職「阿部光裕」です。 |
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私が出家(家出ではありません)したのは、小学校5年の時でした。
ある日「頭を刈ってこい」と言われて床屋に行ったら
バリカンを額の中央に当てられて、頭に道ができました。
だんだん道は拡がって、涙もこぼれぬうちに落ち武者となり
やがて、そこは草も枯れ果てた砂漠と化しました。
その時に「光裕(みつひろ)」という名前から
「光裕(こうゆう)」と呼ばれるようになりました。
幼い頃から、毎朝6時前には起こされて本堂で朝のお勤めをしてきたので
ほとんど疑問も持たずにお坊さんの仲間入りをしたのですが
そこからは迷いと苦悩が絶えずつきまとっていたような気がします。
それは「お坊さん」とは何をする人なのかという
一見単純そうで案外難しい問いが私の中でいつも木魂していたからです。
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「お葬式でお経を上手に唱える人」→「お前は歌手か?」
「頭を剃って衣を着ている人」→「役者か?」
「塔婆を書く人」→「書家か?」
「説教が上手な人」→「噺家か?」
「お寺を掃除する人」→「清掃係りか?」
「厳しい修行が必要な人」→「お前はそんなに駄目か?」
「お客さんの相手をする人」→「ホストか?」
「悩みを聞く人」→「カウンセラーか?」
「宗教家」→「本当か?」・・・・・・・・・etc
世間のお坊さんの評判はまちまちです
よくお寺にご縁があってお付き合いのある方たちは
「住職さん」「方丈さん」「和尚さん」と慕ってくれて |
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いろいろ親切にしてくれたり、一目置いてくれたりする人もいます。
が、「クソ坊主」「生臭坊主」「エロ坊主」「坊主丸儲け」(「ずぼらな人」の「ずぼら」の語源は、「坊さんが修行をサボってなまけている姿を見て『あのボウズら』と言いたいけれど、直接解らないように『ズボウら』と芸能界用語ばりにひっくり返したのが始まりだ」とも言われています。)・・・
と「坊主」とつく言葉にはロクなものがないように
厳しい世間の目にいつもさらされている感覚が年中つきまとっていて
学生時代の私にとって「お坊さん」であることは
重い荷物を背負っているようなものでした。
そんな私が「お坊さん」の道を歩く時
いつも心の支えになったのは中学1年の時に亡くした祖父の姿でした。
私は「おじいちゃん、おばあちゃん子」で育ちました。
小6まで一緒の部屋に寝泊りしていたほどです。
祖父(常円寺の15世)は山寺の和尚さんを絵に描いたようなお坊さんで
若き日は全国の厳しい修行道場を17年も渡り歩き
漢学塾・二松学舎で漢詩や書道を研鑽し
大本山永平寺の役寮に推薦されるほどの力量を持っていながら
「欲は無く、けしていからず、いつも静かに笑っている」
宮沢賢治の「雨にも負けず…」の詩にピタリと当てはまるような人でした。
祖父の死は、突然やってきました。
ある日の夕方、夕食を終えた祖父がトイレに行って帰ってくると
「気分が悪いからここに布団を敷いてくれ」と言いました。
「自分の部屋に行ったら?」と祖母が言うと
「ここに敷いてくれ」と言います。
布団に横たわった祖父は、すぐにいびきを掻いて寝ました。
その祖父の寝顔を見つめながら
「おじいちゃんは、もう駄目かもしれない」父がポツリと言いました。
(脳溢血などの場合、イビキを掻いて寝ると次々に血管が切れてしまうと言われていたらしい)
何が起こっているのかまったく解らない私や姉や妹も
ただならぬ気配を感じて祖父の枕元に寄り添って座っていました。
10分ぐらい過ぎたあたりでしょうか。
いびきが止んで祖父はうっすらと目を開けました。
そして、力をふりしぼるように妹の手を握るとなんと歌を唄い始めたのです。
なんの歌かは覚えていません。
数秒後フェードアウトするように歌が途切れ、
やがて祖父は永久の眠りについていったのです。
「祖父の死」は多感な頃の私を大きく揺さぶりました。
それは離れ難い人との永訣の悲しみであっただけでなく
一生を通じて、何か得体の知れない雄大な心で生きた祖父の
素晴らしい死に様に出会ったという感動的な出来事でもあったからです。
そもそもお坊さんの仕事は非生産的です。
この仕事に特に価値を見出せない人にとっては
必要性を感じないものかもしれません。
だからこそ、「お坊さん」の存在価値とは何かを
自分の生きる道と決めた以上考えます。
でないと、空しい。
たった一度の人生なのだから、自分の進む道にそれなりの誇りを持とうとするのは極めて自然なことである筈です。
いま「お坊さん」は何をする人かと問われたら私はこう答えます。
「真実に生きる道を示す人」
何が正しくて何が嘘か、ちっとも解らなくなるこの時代に
自らの経験・仏教の修行や学びを踏まえ
自らの行動と自らの言葉でそれを示すことで
人々の生老病死の人生に少しでも役に立てたらと願います。 |